私は今国営明石海峡公園神戸地区にて里山保全のボランティア活動をしています。そのきっかけが2008年つまり平成20年の1月1日(元旦)火曜日に神戸新聞で紹介されました。
ふるさとつくろう 北区・藍那に集う人たち
「このままでは里山は死ぬ」 大橋修さん(65)=垂水区本多聞=のつぶやきに危機感がにじむ。
北区山田町藍那。会社を定年退職後、ボランティアとして薄暗い林に分け入るようになり2年半がたつ。
人の手を離れた里山は野に還る。腰の高さほどにササが茂り、繁殖力の強い竹が幅をきかす。密生するため光は地面に届かず低木は育たない。
地元の住民でもないのに仲間と足しげく通う。伐採した竹は炭や柵にする。1日に20本も切り出せばいい方だ。 すぐに昔の里山を取り戻せるわけではない。でも手をこまねいてはいられない。
須磨区で育ち、遊び場は家の裏山だった。チャンバラごっこに飽きると虫取りやドングリ拾いに時間を忘れた。 子どものころの記憶に残る裏山と藍那。2つが重なる。
新開地から電車でわずか20分。すぐ隣は大規模な住宅地の鈴蘭台地区。急峻な地形ゆえ、藍那は長く開発の手を逃れてきた。隠れ里のような山あいに百三十世帯が軒を重ねる。
先人が築いた棚田が広がり、里山から良質の炭がもたらされたかっての風景は、高度成長を境に一変。農家の跡取りは会社勤めを選び、耕作を放棄された田も目立ち始めた。
バブル期、国は藍那を含む土地に壮大なプランを描いた。二百三十四ヘクタール、甲子園球場六十個分にも及ぶ神戸地区と、淡路市の淡路地区(九十六ヘクタール)をセットで整備する「国営明石海峡公園」だ。ほそぼそと稲作を続けてきた地元の人は次々に土地を手放した。
期待に反し、国の動きはにぶく、立ち入りを禁じられた里山は荒れ果てた。当初2008年だった第一期開園は12年に変更。1999年、国は市民が公園の整備を担うという手法を打ち出した。第一期開園する棚田・林間宿泊ゾーン(のべ百六ヘクタール)のうち、棚田ゾーンを大橋さんら市民グループに委ねた。地元や専門家を交え、約20団体が集まった。
国の方針転換で、やっと山の回復が始まった。
市民グループに入った大橋さんが藍那を初めて訪れた2005年春。雑草が茂るままだった棚田の一部がよみがえり、米作りが始まっていた。吹く風は街中とは明らかに違った。
「子ども時分に感じたのと同じ。あのころのにおいがした。」
藍那の主婦、中西正枝さん(55)も活動の輪に加わっていた。
稲美町から嫁いで三十年近く。田植えのころは赤いヤマモモが実り、秋は山が真っ赤に染まった。最初はなじめなかった藍那にいつしか親しんでいた。
仲間と「あいな茶屋」を03年に興し山の幸を使った料理を紹介する。
「昔に戻ったようなほっとする場所。ここは神戸のふるさとになれる場所やから」 誰の耳にも郷愁を持って響くものがある。失われつつあるのなら、新たに作り出せないだろうか。里山を、そしてふるさとを。(上田勇紀)
あなたも私たちと一緒に北区・藍那で里山保全の活動をしてみませんか。